top of page
  • manebiyalecoda

2022年3月講義「ルオーの版画」「ルオーの事」

 3月17日(木)の「小林秀雄と人生を読む夕べ」は、「ルオーの版画」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集所収)と「ルオーの事」(同)を読みます。昨年の10月から続けてきた「美を求める心」シリーズの大詰めです。  小林先生は、『本居宣長』を刊行した昭和52年の翌々年、七十六歳の年の3月に書いた「ルオーの版画」で、最近は進んで見たいと思うような絵は少なくなり、「部屋にはルオーの版画しか掛けていない。時々取り替えては眺めている。ここ数年間、そうしている」と言っています。  ルオーは、20世紀の前半から半ばにかけて描き続けたフランスの画家ですが、四十歳を過ぎた頃から版画に専念し、全58点の連作銅版画集「ミセレーレ」を生み出しました。「ミセレーレ」とは「あわれみたまえ」の意のラテン語で、「旧約聖書」の<詩篇>第五〇篇から採られています。  1871年、貧しい木工職人の子として生まれたルオーは、最初はステンドグラス職人の徒弟になりました、しかし、三十歳を過ぎた頃からピエロや娼婦などを青の色調と荒々しい筆致で描き始め、のちには「聖書風景」と呼ばれる多くの宗教画を描きました。  小林先生には、ルオーについて、「ドストエフスキイの生活」のように、あるいは「モオツァルト」のように書きたいと思っていた時期があり、屡々フランスへ出向いていた画商の吉井長三さんにルオーに関する本をできるだけ多く集めてほしいと頼んで熱心に思いを巡らせていました。しかし、あれほど多くの「聖書風景」を描いたルオーについて書くということは、イエス・キリストについて書くというに等しく、それなら「聖書」を徹底的に読み直さなければならない、だが自分の年齢を考えれば、もうそうするだけの時間も体力もないと、一度は諦めかけました。  ところが、あるとき、吉井さんに、――判ったよ、ルオーはキリストを描いたのではない、風景のなかにキリストの仮の姿を描いたのだ、そういうふうに判ってみると、ルオーは書けそうな気がする……、そう言ったと先生の死後、吉井さんが追悼文に書いています(「小林秀雄全作品」別巻3所収「小林先生と絵」)。  そういう経緯を頭において「ルオーの版画」と「ルオーの事」を読めば、この二篇はついに書かれることなく終った「ルオー」のデッサンとも思えてきます。たとえば「ルオーの事」には次のように言われています。  ――ルオーは、生涯ピエロを描きつづけた。彼にしてみれば、描きつづけねばならなかった、とはっきり言った方がよかったろう。人間劇の舞台にピエロに扮して登場し、死ぬまでこの役を演じ通して、ピエロとは何かという鋭い意識を、ぎりぎりまで磨く事になる。  そういうピエロの複雑多様な内面性を我が物としてみなければ、この世に生きて行く意味は、決して見付かるまい。これは、早くからルオーの人生観の核心にあった信念であった。そして、其処に彼の宗教の基盤があったと附言して少しも差支えない。……  また、――風景画と言っても、ルオーの場合、必ず人々の日常の暮し、それも貧しい辛い営みが、景色のうちに、しっくり組み込まれたものだが、画家の信仰の火が燃え上るにつれて、キリストも時には画面に登場して来るようになる。普通、ルオーの「聖書風景」と呼ばれている構図が、次第にはっきりして来る。……  ――場末の古びた家の台所を描いたものがある。/太い煙突の立った竈(かまど)に赤い火が静かに燃えて、何か粗末な食べ物が鍋で煮え、薬缶(やかん)の湯が沸いている。壁には、フライパンが三本、まるで台所の魂が眼を見開いたような様子で懸っている。傍の椅子に、男が一人腰をかけ、横を向いて、考え事をしている。頭上に塗(は)かれた背光めいた色から見て、キリストに違いないのである。裸にされた人間の暮しの跫音(あしおと)に聞き入っているのであろうか。……  

 ルオーの作品は、日本では出光美術館とパナソニック汐留美術館に多く所蔵されています。  出光美術館   ⇒時期によって、併設展示というかたちで見ることができる場合もあるようです。     http://idemitsu-museum.or.jp/exhibition/establishment/#exhibition1

 パナソニック汐留美術館   ⇒以下のように常設があり、展示内容も確認できます。     http://panasonic.co.jp/ew/museum/collection

 講師 池田 雅延


閲覧数:44回0件のコメント

最新記事

すべて表示

2022年9月の講義 「カヤの平」

●前半「カヤの平」 ​(新潮社刊「小林秀雄全作品」第5集所収) ●後半「小林秀雄、生き方の徴」 (見るということ、聴くということ) ​ 前半の<小林秀雄山脈五十五峰縦走>は、第十峰、「カヤの平」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第5集所収)を読みます。 「カヤの平」は、紀行文です、しかし、並みの紀行文ではありません。昭和八年(一九三三)、三十歳の一月、小林先生は文学仲間でもあった深田久弥氏についてスキー

2022年8月講義 「故郷を失った文学」

●前半「故郷を失った文学」 ​ (新潮社刊「小林秀雄全作品」第4集所収) ​●後半「小林秀雄、生き方の徴」 (知るということ、感じるということ) 前半の<小林秀雄山脈五十五峰縦走>は、第八峰、「故郷を失った文学」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第4集所収)を読みます。「故郷を失った文学」は、小林先生三十一歳の年の昭和八年(一九三三)五月、『文藝春秋』に発表されました。 小林先生は、明治三十五年四月に東

2022年7月講義 「Xへの手紙」

●前半「Xへの手紙」​ (新潮社刊「小林秀雄全作品」第4集所収) ●後半「小林秀雄、生き方の徴」 (読むということ、書くということ) ​ 前半の<小林秀雄山脈55峰縦走>は、第七峰、「Xへの手紙」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第4集所収)を読みます。「Xへの手紙」は、昭和七年(一九三二)九月、小林先生三十歳の秋、『中央公論』に発表された小説です。   俺は元来、哀愁というものを好かない性質だ、あるい

bottom of page