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2022年3月17日(木)「ルオーの版画」「ルオーの事」 /トンベ

 池田先生による「美を求める心」シリーズの講義、最終回は小林先生が特に晩年、愛されたルオーのお話でした。

最初に取り上げられたルオーの版画について、小林先生はこう描写されています。

 日の出と言うより、この画家は、太陽が毎朝、地球という惑星を照らすところをモデルにしていると言った方がいい。地球は地層を剥き出し、荒寥たる姿だが、よく見ると、鳥が一羽、敢て明烏とも呼びたいような優しい姿で舞っている。人間達はもう沢山生れていて、地表の何処かに隠れているように見えて来る。(「ルオーの版画」小林秀雄全作品第28集所収)

 天体規模の、スケールの大きいわくわくするような描写であり、この「ミセレーレ」の中の絵がどういうものか是非とも見たいと思ってインターネットで検索すると、オークションサイトに出品されている画像が出てきました。題名は「朝の祈りを歌え、陽はまた昇る」で真作とありましたが、価格は思ったより安い。今のところ入札者はいませんが、オークション終了時間まであと2時間と表示されています。さて、どうしようかと思って悩んでいたところ、池田先生が、美術品は展示会で眺めるだけのものではなく、身近に置いて肌で感じるものだとおっしゃる。その美術品を買いたいという所有欲が大切だとも話され、講義を聴きながら、次第に心に火が点いてきました。


 その後の講義では、小林先生が表はピエロ、裏は花が描かれたルオーの皿の表裏が見えるような壁の造作をされて、これを毎日眺められていたという話をされました。

そこまで愛されたルオーのことを、自分はキリストの事が分からないからと言って、書くことを躊躇われていた小林先生が、ある時、ルオーの「霊感は、『死せるキリスト』よりむしろ『自然』から直かに来た」(「ルオーの事」小林秀雄全作品第28集所収)という言葉などから、ルオーについて本格的に書く意欲を持たれたというお話に感銘を受けましたが、残念ながらそれは実現されませんでした。


 さて、講義が終わってオークションのページに戻ると、終了まであと1時間で、未だに入札者はなしとあります。…どうしたらよいか?


 話は変わりますが、昨今は印刷技術が格段に進歩して、本業である木目の美しさを売る仕事においても、本物か、印刷物か分からないことがあります。ただ、木の場合は、厳密に言えば同じ色柄のものは一つとしてないはずなのに、印刷物だと同じ色柄が繰り返されることにより、本物ではないことが分かってしまいます。目は騙されても、頭は騙されないわけで、偽物だと思うと、つまり繰り返しを見つけてしまうと、頭も目もいつの間にか低い評価に揃ってしまいます。

 しかし、今回の絵は銅版画(エッチング)ということで、基本的には真作でも同じものが何枚も刷り上がりますし、印刷技術が精巧であれば、限りなく真作に近いものが出来上がってしまうことでしょう。


 池田先生による「美を求める心」シリーズの中で語られた、小林先生の骨董における真作と贋作の問題、ゴッホの絵の本物と複製画の問題、そして、絵を単に目で見るだけでなく、それを所有して、言わば体全体で見るということの大切さ、それらの問題が最後は大きなうねりとなって自分の心の中に押し寄せてきて、身を持って自らの鑑賞眼や価値観を試される、大変貴重な講義となりました。

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