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2022年1月20日(木)「ヴァイオリニスト」「蓄音機」 /青山純久

更新日:2022年3月4日

 その生涯にわたって音楽を愛した小林秀雄。「ヴァイオリニスト」と「蓄音機」の二編はどちらも短い文章ながら、音楽を聴くという行為の本質を衝いた意味深い内容でした。音楽も蓄音機(オーディオ)もどちらも大好きな私にとって、池田先生がどのようなお話しをなされるのか、とても楽しみにしながら当日を迎えました。そこで解き明かされた音楽を巡るエピソードの数々に驚きを感じると共に、小林秀雄の音楽に対する姿勢をひとことで表わす、「音楽は耳で聴くものであり、頭で聴くものではない」という言葉に感銘を受けました。


 また、この日、思いがけず、作曲家・桑原ゆうさんのお話しが聞けたことも大きな収穫で

した。作曲家から見たヴァイオリニストという存在についての印象の数々は大変興味深く、楽器と演奏家の邂逅の必然性というものに深く想いを巡らす機会となりました。また、楽器が演奏者を選ぶのは本当なのだという気がしました。技巧が手段ではなく目的になったパガニーニや作曲家の知性を備えた超絶技巧のリスト。小林秀雄の音楽に対する思いを、音楽を生み出す側から受け止め、深めていこうとされていると感じました。


 楽器と身体の間には一定の距離が有り、演奏家は絶え間ない訓練と緊張によって、楽器の

構造が与える試練と対峙します。弦楽器においては、弦の振動が響胴などの共鳴部に伝わり増幅され、更に空気を振動させることで、演奏会場に響き渡り、人々の着ている服の素材までが吸音材としての影響を及ぼしつつ、我々の鼓膜に届くというプロセスがあります。

 

 もちろん、音が私たちの「耳に届く」ことと「音楽を聴く」ことは同義ではありません。芸術体験全般にいえることですが、感動や意味深い体験は常に訪れることはなく、あるとき、ある瞬間に恩恵のように私たちの心を打ちます。聴く人が、同じ環境下で同じものに接したからといって、同じように体験できるとは限りません。ゴッホの複製画のエピソードにもあるとおり、私たちの人生や心の奥にあるものとの本当の邂逅がなければ、一切は虚しいと言えるのかもしれません。


 「寧ろ、僕は、或る一つの巨きな眼に見据えられ、動けずにいた様に思われる。」

 ※「ゴッホの手紙」小林秀雄全作品第20集所収


 音楽を聴いて心から感動するとき、その音の中にある作曲家や演奏家の魂が、私を見据えているのかも知れないと思うことが何度もあります。乱暴な飛躍かも知れませんが、私は単に音楽を受け身で聴いているのではなく、音楽が作り出す世界と一体になることで、「音楽が私を聴いている」という感覚に陥ることがあります。

 音楽は瞬時に消えていき、常にその音を聴いている我々の現在を更新し続けます。発せられた一瞬の音の背後には膨大な過去が堆積し、未来の音を未だ誰も聴いたことがありません。ただ、記憶の彼方から顕れる音は時間の経過から自由になって、それはあらかじめ夢の像のように時間を超越した「全体」として存在しています。


 音楽を聴くという行為の真髄を衝く「記憶」、そして演奏家に対する「視覚」という要素について、目を開かれる思いがしました。鳴らないヴァイオリンに苦闘するメニューインの姿やグールドの演奏風景を語る小林秀雄の様子が、池田先生のお話しによって、生き生きとしたイメージで呼び起こされ、眼前に甦るようでした。


 音楽は記憶の襞の中から湧き出るようにして、意識の裡にある音の連なりを呼び覚ますことがあります。作家の平野啓一郎氏は、自分は音楽好きであるが、外出先で、イヤホンで音楽を聴くことがほとんどない。脳内再生で十分足りているからだ、という旨の発言をされています。演奏家は楽譜を見て、その視覚情報を指先に伝えているように見えるのですが、実は演奏家の脳内では、演奏するときすでに完璧な音楽が鳴っていて、それがその時の感情や観客のエモーショナルな動きを反映しつつ、身体を通じて発顕してくるものだろうと想像できます。そして、音楽の記憶は事実よりもしばしばその体験の印象の強度に左右されるものであることを感じます。記録を超えて、私たちの耳に届く音楽の魂・・・。


 音楽は聴こえてくるものであると同時に、私たちが聴き取ることで体験として成立します。記憶が私の内部で音楽を響かせるとき、その体験は記憶を媒介とした、私自身の創造行為でもあるのだと、いうことが、池田先生のご講義によって理解できるようになりました。


 質疑応答でも話題が出ましたが、ベルグソンは「記憶」を、「存在が事物の流れのリズムから自由になって、より過去を促持することによって、未来にますます強く影響を与えることを可能にするある内的な力」と規定しています。圧縮された個の感情や想いが自由に発露する場としての記憶。進化や発展への寄与、科学的合理性や整合性という桎梏から解き放された広大な意識圏に通ずる道がそこに見いだされます。


 「記憶のシステムというものは、やはり鳴るものであるという事に、大きな興味を寄せている。」※「蓄音機」小林秀雄全作品第22集所収


 音楽体験といえるレベルまで深く心に響かせようとすると、どうしても意識や無意識という、いわば感受する主体の深まりが必要となり、受け手側の問題が大きくなります。ここまでくると、音楽体験とは、極めて内的な体験であることが分かります。


 音楽会やライブで聴衆のひとりとして音楽を聴くとき、各自の聴くという体験自体が空間の中で音と共に共鳴し、一種の共体験となることが起こります。演奏家の体の動きや楽器の存在に加えて、聴衆の気構えが演奏家の心理に反映し、場所が生き物のように動き始める瞬間があります。

 演奏に偶然性が入ることを嫌った天才グレン・グールドは、1964年の早い時点でコンサートからの撤退を宣言し、レコードを仕上げる際には、テープ編集(良い部分をつなぎ合わせる)を駆使していたと言われています。


 いわゆるレコード体験と音楽会・ライブ体験は、聴く環境によって様々に影響されますが、感受する主体から言えば、形式こそ違えども、「音楽体験」であることに違いはないといっても差し支えないと思います。ライブであろうと、レコードであろうと、また、脳内に湧き上がるものであろうと、それらは音楽を聴くという行為に関して、それぞれの特性を有しつつ、音楽体験としてのきっかけを与えてくれる機会になると私は考えます。


 「小まめで神経質なレコード・ファンは、実際、呆れる程いい音を聞いているものである。」※「ヴァイオリニスト」小林秀雄全作品第19集所収

  

 蓄音機(つまりオーディオ機器)で音楽を聴く体験とはいったいどのような体験なのか。

ステレオ音源が登場するまではモノラル、つまり音源がひとつしかなかったのですが、左右別々の音が出る2チャンネル・ステレオが映画用に開発され、ステレオ・レコードが世界で初めて市販されたのが1957年頃(昭和32年)。小林秀雄の「蓄音機」が書かれたのは昭和33年なので、この時すでに、次の時代の大衆的オーディオ時代の到来と、密室で「いい音」と対峙することの危うさを予感されていることに驚きを隠せません。


 「音楽を文化として聴いていない。音として考えている。ステレオさえよければ、快い音

を与えてくれる、音楽をそういう音として扱っているとしたら、こんな傲慢無礼なことはないよ。」

※「音楽談義」小林秀雄全作品第26集所収


 蓄音機やオーディオシステムを構成する要素として、カートリッジ等の音の入口から、増幅するアンプと音を空気振動に変換するスピーカー及びその振動の特性を引き出すエンクロージャー(箱)などがあります。音の良さ(何をもって良いとするかは別にして)を追求していくと、音を聴いて音楽を聴かず、という状態に容易に陥ります。つまり、悪い音が耳に付くようになると、音楽を聴くという目的を忘れ、池田先生がお話しになったとおり、ハイファイという妄想に踊らされ、「雑音」を聴いてしまうことになります。バスタオルはつまり私の意識の上にかかっていた・・・。


 「耳は原音をなぞるものではない。耳はカートリッジではないという事が言いたいまでです。巨大な音の世界というものが存在します。これについては、僕らはほんの僅かの事しか知らない。僕等の意識は、その巨大な自然の音の世界のほんの一部で、共鳴を起こしながら生きている。そして音を発見し、創造もしている。それが耳の智慧だろう。」※「音楽談義」小林秀雄全作品第26集所収


 「好・信・楽」(「小林秀雄に学ぶ塾同人誌」)での杉本圭司氏の連載「ブラームスの勇気」を読んで驚いたことがあります。それは「その時レコードのごく一部だけを手元に残し、あとは長らく使用したオーディオ装置と一緒に、ラックごと『山の上』に置いていったのだった。」というくだりでした。私は亡くなられてから、「山の上」の家に移動されたものとばかり思い込んでいました。鶴丘八幡宮の近くに移り住まれた家にも別のオーディオ装置はあったと考えられますが、長年愛用していたテレフンケンのオーディオ装置や多くのレコードが残されたことについて、間違っているかも知れませんが、こんな風に考えてみました。

 「物理的に記録された音」としての音楽は、その頃の小林秀雄には、もう以前ほどには必要がなくなったということなのだろうか、と・・・。


 これまでの「小林秀雄と人生を読む夕べ」の池田先生のご講義を通じて、小林秀雄の本質を直感する力、垂直に立ち上がる思考の鋭さは比類なく、ものごとを見る目の厳しさと確かさは時代を超えているのだ、という想いを今回も強くしました。

 池田先生、ありがとうございました。


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