2022年1月20日(木)「ヴァイオリニスト」「蓄音機」 /トンベ
- manebiyalecoda
- 2022年2月5日
- 読了時間: 3分
更新日:2022年3月4日
二〇二一年十月より始まった、「美を求める心」をテーマとしたシリーズ、小林先生が経験した様々な美を、時間軸に沿って、池田雅延先生が講義されています。
今回は音楽にスポットを当てた二作品でしたが、小林先生が音楽を聴く態度として、耳だけでなく、五感で聴く、時として体を動かして体で聴くというお話が大変印象に残りました。つまりは、音楽を体全体に取り込んで、作者の気持ちと一体になって聴く。そうすれば、そこに自分の輪郭もおのずから立ち上がってくる、自分という存在が見えてくる。骨董や絵画においても、ただ見るだけでなく、それを所有したいという欲望が生じますが、これもまた、その骨董や絵画の中に少しでも入り込んでいきたい、あるいは逆にそれらを自分の内部に少しでも深く取り込みたいという気持ちの表れなのでしょう。
ところで、今回の作品、「蓄音機」(「小林秀雄全作品第22集」)の中で、大変考えさせられる一文がありました。
オランダの展覧会で、ゴッホの本物三百余点に接する機会が到来した折、そのうち一枚の本物は、「ゴッホの手紙」を書く動機となった私の持っている一枚の複製画の複製と見えた。
また、「近代絵画」(「小林秀雄全作品」第22集」のゴッホのところで、小林先生はこういうふうにも書いています。
私の持っている複製は、非常によく出来たものだが、この色の生ま生ましさは写し得ておらず、奇怪な事だが、その為に、絵としては複製の方がよいと、私は見てすぐ感じたのである。
この堂々とした、自らの美に対する眼力の自信を小林先生が感じたのは、昭和二十八年の五月です。ここで思い出されるのは、以前の講義にあった、小林先生が骨董に夢中だった昭和十年代の後半、呉須赤絵の見事な大皿を買った時のエピソードです。それを青山二郎に贋作だと言われ、どう見ても美しいが、「壺中居」に売ってしまいます。その時、店の主人にはこれは本物だと言われるのです。
この二つの話を重ね合わせると、やはり美を見る力というのは、ただひたすら見ることによって、研ぎ澄まされていくということではないでしょうか。「芥川龍之介の美神と宿命」(「小林秀雄全作品」第1集」で、小林先生はこう言っています。
あらゆる芸術は「見る」という一語に尽きるのだ。
その「見る」という鍛錬を重ねた上での、前述のゴッホの絵を見る目をもってして、呉須赤絵の大皿を見ていたとするなら、恐らく、青山二郎に何を言われようが、小林先生はその美しさに対する自信を揺るがせなかったように思えてなりません。
この「美を求める心」というシリーズは、時間軸に沿って、様々なジャンルの美が重層的に交差し、また共鳴し合って、回を追う毎に新たな地平が見えてきたり、より魅惑的な旋律が聞こえてきたりするように感じています。あと二回でさらにどのような広がりと深淵が待っているのか、池田先生のお話を全身全霊で聴くことを楽しみにしております。
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