2021年7月15日(木)「菊池寛」 /トンベ
- manebiyalecoda
- 2021年8月7日
- 読了時間: 3分
更新日:2021年8月13日
今回の『小林秀雄と人生を読む夕べ』の対象は菊池寛。
池田先生はまず菊池寛が持つ様々な顔について紹介されました。小説家はもとより、文藝春秋を創刊し、芥川賞・直木賞を設立し、日本文藝家協会を設立した人物。これだけでも並みの文学者ではないことが窺えますが、さらに調べたら、文化学院文学部長、東京市会議員、大映社長などの経歴もあり、趣味は将棋、麻雀、競馬と実に多才な人間像が浮かび上がって来ました。
そんな菊池寛の小説家としての矜持を示す言葉を池田先生は紹介されました。
『私には、小説を書くことは生活の為であった。――清貧に甘んじて、立派な創作を書こ うという気は、どの時代にも、少しもなかった。』
そして、この言葉と見事に呼応するような、小林秀雄氏が新潮社80周年に寄せて書かれた新聞広告の一文を、池田先生が取り上げられました。
『若い頃からの、長い売文生活を顧みて、はつきり言へる事だが、私はプロとしての文士の苦楽の外へ出ようとしたことはない。生計を離れて文学的理想など、一つぺんも抱いた事はない。書いて来たのは批評文だから、その形式上、高踏の風を装つた事はあったが、私の仕事の実質は、手狭で、鋭敏な文壇の動きに接触し、少数でもいゝ、確かな読者が、どうしたら得られるかという努力の連続であった。』
実はこの新聞広告、まだ二十代だった頃に切り抜いて、今も大切に保管しています。その後半の文章も実に味わい深いものがあるので、ここに引用させて頂きます。
『近頃は、殆ど「新潮」にしか書いてゐないが、新潮社の仕事の中心をなして来たこの雑誌の創刊が明治三十七年と聞くと、何時会つても丈夫でゐる人を見るやうだし、又、その人が、文学の理想は、絶えず実地に試してゐないと生きて行けないものだ、と言つてゐるやうにも思はれる。』
「新潮」に敬意を表しながらも、自らの生き方をそこに重ね合わせて語っている、つまり、前半の文章の内容を絶えず実践しているという、小林秀雄氏の強い自負が感じられます。
そして、菊池寛の代表作として、池田先生が『父帰る』の内容をかいつまんで話されましたが、最後まで帰ってきた父を許さなかった長男が、父が出て行ったあと、「―お父さんを呼び返して来い」と言ったあと、幕が下りることになるくだりは、胸にじんと来る深い余韻が残り、それだけでも菊池寛が庶民の心を掴むうまさが凝縮されていると感じました。ちなみに、恐らく偶然ではなく、小林秀雄氏は昭和27年の文士劇において、この長男役で出演しています。
さらに、池田先生は菊池寛の帽子や入れ歯などに関する様々な逸話を取り上げられ、それらはほんの氷山の一角で、逸話の大家とも言える菊池寛の人間性が、自我を乗り越えて、そこに本当の人生がある大衆小説の優れた書き手としての成功をもたらしたというような話をされました。
講義のあと、菊池寛という人物像に大変興味を抱き、いろいろと調べていたら菊池寛の遺言というのが目に留まったので、引用させて頂きます。
『私は、させる才分なくして、文名を成し、一生を大過なく暮しました。多幸だつたと思ひます。死去に際し、知友及び多年の読者各位にあつくお礼を申します。ただ国家の隆昌を祈るのみ。— 吉月吉日 菊池寛』
自らの人生を振り返って、最低限とも言える骨格のみを述べた遺言ですが、本来そこにあったはずの膨大な逸話や、作家としての思いや主張や自負などの血肉を削ぎ落とした、簡潔にして完璧な遺言だと感じ、これこそ菊池寛の思想の神髄だという気がしました。
池田先生に菊池寛という人物の本質に迫るお話をお聞かせ頂き、では自分はどう生きるべきかと、今回もまた自分の人生を見詰め直す機会を与えて下さったことにひたすら感謝しています。
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