2021年6月17日(木)「志賀直哉」 /青山純久
- manebiyalecoda
- 2021年7月12日
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六月の池田先生のご講義「志賀直哉」は、実に示唆に富んだ奥深いものでした。
志賀直哉については、これまで「城の崎にて」くらいしか読んだことがなく、谷崎潤一郎が「文章読本」の中で取り上げた名文、という程度の浅い理解でした。
当時の文壇に絶大な影響力があり、評価が高かった作家故に、戦後の価値観が混沌とする時期に、主に無頼派と呼ばれた作家(太宰治・坂口安吾・織田作之助など)から、批判の対象とされたことに目を奪われていました。
かつて、若さの中で読んだ「城の崎にて」。
療養先の兵庫県城の崎で見た、生きものの死をめぐる印象と自分自身の死を目詰める視線とが交差する良くできた小品、という以上の印象を持ち得ませんでした。
宿を出て、小川の流れに沿って坂道を登っていくと、いつの間にか眼下にあった家々はすっかり見えなくなり、夕暮れが迫りくる頃、流れの石の上にいるいもりを見る・・・。
ここで、いもりとやもりの印象が語られますが、この部分を読んだときのことは昨日のことのように憶えており、私には可愛らしく丸い足先を持つやもりは好ましい生きものであるのに、どうしてこの作家はやもりが最も嫌いなのだろう、と不思議に思い、さらに蜥蜴が何よりも嫌いな私にとっては、この作家の眼が捉えた様々な印象の強さだけが記憶に残りました。
今回の池田先生のご講義を拝聴し、小林秀雄の批評を通して、数十年ぶりに読み返してみると、作品の印象が大きく変化していました。
よく見る、という事は、ものごとに向かうとき当然のように必要とされる態度ですが、見うとするのではなく「見えてしまう」という作家の宿命的な眼。このことは、ものごと自体の成り立ちを見てしまうことに繋がるといえます。
壺法師と云われた東大寺観音院の上司海雲師とともに骨董にも親しんだ作家は、古陶磁に対しても外観上の形だけではなく、素材そのものの成り立ち、つまり造形物の奥に潜む「そのもののいのち」が見えたのではないかと思われます。
作家が現実を捉える眼は文章の活き活きとした形成力に連接していると考える事ができます。
まさに、叩けば音のする文章・・・。
「見ようとすれば無駄なものを見て了う」
「氏の印象の鮮明は記憶による改変を許さない」
「氏の魂は劇を知らない」
「氏の苦悩は樹木の成長する苦悩である」
このようなことを「様々なる意匠」の後、評論2作目の若き小林秀雄が見事に書き得たという事実に圧倒されます。
見ることと見えることは違い、見えるということは形あるもの、つまり一瞬毎に変容する現実の向こう側にある実在の本質を、その造形において掴まえる意思であり、もはやそれは「行動」と同じ、という感慨を強くしました。
このような考えが、池田先生のご講義に刺激を受けて、次々と湧き上がってきました。
私は奈良を歩くことが好きで、高畑の志賀直哉旧居や、若き小林秀雄が滞在した割烹旅館江戸三、毎日のように通ったという二月堂の煤けた茶店(現在は休憩所)のあたりを何度も巡るうちに、小林秀雄や志賀直哉が過ごした古い奈良が、失われし時間の切れ間からふいに現れる瞬間を体験することがあります。
小林秀雄が着の身着の侭に関西に向かったのは昭和三年の五月。大阪、京都などとの行き来を交えて奈良に長く滞在します。それは高畑の志賀直哉邸が完成する前年にあたり、当時は奈良教育大近くの幸町に家があり、小林秀雄が最初に訪ねたのはこちらの住まいであったことをずいぶん後になってから知りました。廿年ぶりの二月堂の眺望からはじまる、奈良の印象が綴られた「秋」という随筆の中の、次のくだりに心打たれます。
「私が信じているただ一つのものが、どうしてこれ程脆弱で、かりそめで、果敢なく、又全く未知なものでなければならないか。空想は去り、苦しく悲しい感情が胸を満たした」
※昭和25(1950)年「芸術新潮」掲載。(『小林秀雄全作品』第17集所収)
「ものごと」について考えるとき、他人あるいはもの自体から発して、自分自身の反射として還ってくるものの中に、見いだすべき自分がいる、という感覚が生じることがあります。内と外との出会いです。
逆に自分という存在を掘り下げていくと自分にあたる、という意味において、まさに自分自身に「あたって」しまい、ものそのものが見えない地点に押しやられていることもよく起こります。
いったい自意識や観念の過剰がものの本当の姿を曇らせることに気が付くまでに、どれくらいの人生の時間が必要だろうかと…。
事実がその人の「真実」たり得るかどうか。こういうことを考えもしないで、字面だけを追っているどんな読み方も、魂の抜け殻のようなものになってしまう。
抜け殻であるかないか、そういう見る目を養うことが諸君の勉強だな、といわれているような気がします。
何かが見えた果てに、再び自分自身の人生に還ること。そのようなことを考えた、実に意味深い「小林秀雄と人生を読む夕べ」でした。
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