2019年9月19日(木)『当麻』感想/松浦逸郎
- manebiyalecoda
- 2020年2月17日
- 読了時間: 2分
池田先生の小林秀雄講座を初めて聴いたのは、2015年5月の『様々なる意匠』(神楽坂「ラカグ」にて)でしたから、池田先生の生徒になって4年半になります。
講座に参加する都度、要旨を出来るだけ細かくメモに残しています。
2018年9月には、矢来能楽堂で『当麻』の講座に参加しました。
いつも通りこの時も、小林秀雄の心の動きと思想の流れ、時代背景などを掌を指すが如く分かり易い講義をしていただき、僅か4ページの文章にこれだけの内容が読み取れるか……と感服しました。
今回江古田で『当麻』の講座に参加することになりましたが、僅か1年前にあれだけ完成度の高い講義をなさったので、1年前のメモを見てこれとほぼ同じ講義になる……と予想して参加しました。
ところが聴いて驚きました。
前回より明らかに進化・深化(熟成)していました(どうも生徒の分際で生意気な表現で申し訳ありません)。感服しました。
池田先生ご自身が、「50年間当麻を読んでようやく人に語れるまでに理解が進んだ。昨年より進化した」とおっしゃっていました。
小林秀雄の文章には、「○○○とは×××の事である」という断定文(決め台詞)が時々出て来ます。
この文が出てくる度に「これは小林秀雄の思想の凝縮された結論だ」と思って前後を丁寧に読む事にしています。
小林秀雄は、冗長な文章を極端に嫌い、文章を削って削ってぎりぎりに切り詰めたという事です。
当日の池田先生の講義にも同様な思い切った断定的な表現が多くありました。
例えば、
世阿弥の「花」は
(風姿花伝では)演技の魅力、面白さの事である。
演技の魅力とは、身体の動き(舞)の事である。
言葉で表現出来るものではない。
だから「世阿弥の「花」は秘められている確かに」
小林秀雄の「花」
人の身体の美しさである。
人の身体でしか表せない人生の意味である。
人の生死に関する思想(死生観)である。
人の身体の動きでの表現(美しい「花」)には、訓練が必要である。
観念での表現(「花」の美しさ)に訓練は要らないし、軽薄で真実には遠いものである。
だから「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない」
池田先生は、50年かけて読み込んで初めて自信を持ってこうした断定的な結論に到達されたと思います。
二回目の『当麻』を聴講して良かったと思っています。
70歳を越えて進化熟成する池田先生に感服した次第です。
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