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2019年3月講義『ランボオⅠ・同Ⅱ・同Ⅲ』

更新日:2021年1月11日

第3回 2019年3月21日「ランボオⅠ・同Ⅱ・同Ⅲ」

 ランボーは、19世紀後半のフランスに生れ、早熟の天才と謳われた詩人です。小林氏の青春の幕は、このランボーによって切って落とされました。「ランボオⅢ」に小林氏は書いています。

 ――僕が、はじめてランボオに出くわしたのは、二十三歳の春であった。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いていた、と書いてもよい。向うからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである。僕には、何んの準備もなかった。ある本屋の店頭で、偶然見付けたメルキュウル版の「地獄の季節」の見すぼらしい豆本に、どんなに烈しい爆薬が仕掛けられていたか、僕は夢にも考えてはいなかった。而も、この爆弾の発火装置は、僕の覚束ない語学の力なぞ殆ど問題ではないくらい敏感に出来ていた。豆本は見事に炸裂し、僕は、数年の間、ランボオという事件の渦中にあった。それは確かに事件であった様に思われる。文学とは他人にとって何んであれ、少くとも、自分にとっては、或る思想、或る観念、いや一つの言葉さえ現実の事件である、と、はじめて教えてくれたのは、ランボオだった様にも思われる。……

 「地獄の季節」はランボーの詩集です。そこに仕掛けられていた「烈しい爆薬」とは何だったのでしょうか。そしてその爆風を真正面から浴びた小林氏は、「ランボオという事件の渦中」で何を見、何を考えたのでしょうか。

 講義では、氏が訳したランボーの詩「酩酊船」も読み、ランボーと一体となる氏の言葉と調べを味わいました。


 講師 池田雅延

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