2019年12月講義『徒然草』
- manebiyalecoda
- 2019年12月28日
- 読了時間: 2分
更新日:2021年1月11日
今月は「無常という事」シリーズの第4回、「徒然草」です。この作品は昭和17年(1942)8月、小林氏40歳の年に書かれました。
今日、「徒然草」は高校国語の古典入門に用いられ、古語や古典文法を学ぶための道具にされてしまって、それさえできれば「徒然草」はもうわかったということになっているのではないでしょうか。つまり、「徒然草」は、古文の初心者にちょうどいい身辺雑記で、大学に受かってしまえば、社会に出てしまえば、もう用はないと思われているのではないでしょうか。
とんでもない誤解です。小林氏は、昭和47年2月、70歳を目前にして発表した講演録「生と死」で、こう言っています、――「徒然草」を残した兼好法師という人は、私たち批評を書く者にとっては忘れることのできない大先輩です、彼が死んでから六百年余りになるが、この人を凌駕するような批評家は一人も現れていないのです……。小林氏の批評活動は、最初から最後まで人生いかに生きるべきかの探求でしたが、兼好はそういう批評の大先輩であるのみならず、最高峰だと言うのです。
では兼好の、どこが小林氏にそう言わせるのでしょうか。今回読む「徒然草」で、小林氏はこう言います、彼には常に物が見えている、人間が見えている、見え過ぎている、この見え過ぎる眼をいかに御(ぎょ)したらよいか、これが「徒然草」の精髄であり、物が見え過ぎ解り過ぎるつらさを、彼は「怪しうこそ物狂おしけれ」と言ったのである……。
今月19日のlecodaでは、その兼好の見え過ぎる眼が見た摩訶不思議な人の世の機微を、兼好の眼を借りて見ていきます。
講師 池田雅延
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