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2019年12月19日(木)『徒然草』/M.I

  • manebiyalecoda
  • 2020年8月16日
  • 読了時間: 2分

 「徒然なる儘に、日ぐらし、硯に向かひて」この有名な冒頭の一節がなんとも好きである。硯に向かい徒然に思いを巡らす作者兼好の姿を空想する。墨の匂いが無性に懐かしくなり、ゆったりと仮想の時空間を彷徨える一節。

 しかし昨年末、池田先生のご講義で小林秀雄の作品に触れ、随所で胸中騒然する事となった。「物が見え過ぎる眼を如何に御したらいいか、これが『徒然草』の文体の精髄である」。なんときっぱりと定義したお言葉だろう。

 「怪しうこそ物狂ほしけれ」とは、紛れるどころか眼が冴えかえって、いよいよ物が見え辛さを意味しており、そして兼好の言葉を引用して「よき細工は、少し鈍き刀を使ふ、といふ。妙観が刀は、いたく立たず」と、鋭い批判の毒を吐かず、真意を明かさぬ兼好の態度を「名工」と喩えている。

 ひたすらに人生の機微を感受し至った「物が見え過ぎる心境」とは如何なるものか、改めて兼好の人物像に興味を抱いたが、それと共に、鈍刀のふりというこの手加減の振る舞いに、兼行の気高い品性を感じ、底知れぬ強い憧れを抱いてしまった。突き抜ける様な厳しさや清々しさと共に、そこに何かを隠すことをよしとする優しさと賢明さの美学。その「見える」と「隠す」の間に生じる感性や感情、思索とはどの様なものなのか。

 小林秀雄の作品を学びたい理由の一つに、先生の言葉を通じて、日本の文化とはどの様な人々によって継承されてきたのかを知り、教養を深めたいという思いがある。

 急に日本料理の話に転じるが、確か「匙加減」や「あえる」と言う料理技術は、作り手の感性で、各食材の素材の素晴らしさを存分に活かす為にあるもので、日本料理ならではの表現だと聞いたことがある。今回の名工の喩えと何か底通するものがあるのではと思った。

 感性を優位とする日本文化は、非常に高度なものでありながらも、一方で、あまい解釈で捉えると、大きな誤解を孕んだ扱われ方をされてしまう。

 「徒然草」そして小林秀雄の作品を少しずつ読み進めながら、日本の姿について、様々な方面から探究してみたいと思う。

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